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保留音 (2015年9月2日)

職務質問を受けるのは6年ぶり2度目である。目立たないように生活しているつもりなのだ。

目の端に警察官の姿がある。(通り過ぎたな、)と思うとコン、コン、と車のガラスを叩く音。デジャヴ。今回は所持品確認と車内検査もあったが、空気圧を測る棒を見て「これは何ですか」と言われただけで終わった。しかし「他人のカードを持っていないか確かめるので」と言って雑然とした財布のカード類を逐一あらためるので時間がかかる。免許証の情報を無線で照会する間、和やかにどうでもいい話をするのも、デジャヴ。

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親しさのようなものが不得手である、と自分では思っている。家族や親族とであっても、親しげに振る舞うべき状況に置かれるとお腹が張るし、後で頭が痛くなる。誰とも同居せず友人も恋人もなく気楽にやっていられる今の状態は、ありがたいことだ。

だからSNSなどもやらず、こうしてこんなところで文章を書いている。逃げているのだと思う。

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やっと携帯電話を買い換えた。スマートホンで電話中に保留音を鳴らせる機種は限られるようである。これはソフトの問題ではなく、機種によるのだそうだ。店に行くと保留音を鳴らせるかどうかという情報は分からないからメーカーに聞いて欲しいという。メーカーのサイトを見るとそのような情報の記載はなく、詳細は電話会社に聞いてくれと書いてある。仕方がないから電話会社のサポートに電話する。

何度か対応部署が代わり、結局折り返し連絡をもらうことになった。メーカー等を絞り込めば調べてくれるというので申し訳ないがお願いした。後にかかってきた電話によると、データとしては存在しないそうで、何と実機で試して下さったというので恐縮の至りである。

嫌な客になってしまった。そんなわけで、やっと携帯電話を買い換えた。店で「箱を捨てて下さいますか」と言うと「付属品がありますが…」とのこと。ああ、嫌な客になってしまった。

 

卑屈 (2015年9月12日)

いつにもまして思いっきり卑屈なことを書きます。

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ああ俺は無能だ性根の腐りきった生きるに値しない根性なしのくずだ、しかし死ねば人に迷惑が掛かる不快な思いをされる方がいる、根性をたたき直して心を入れ替えて誰にも迷惑を掛けずせめて少々使い勝手の悪い物くらいに思っていただいてただ働いてだけいられればいい、などと考えることがある。

ただ考えるだけで実際の行動に反映されないから、結局また人に迷惑を掛けるばかりで性根は腐乱していくので、本当にただ考えているだけであって何の意味もない。きちんとした人はそんなことを考えずに黙って手を動かすだろう。

当然そういう人は「ああ俺は真人間だ実直に働いている」などと一切考えないはずだから、俺は真人間だなどと考えればそれはおごっているわけで、そんなことを考える真人間はいない。

そもそもここにこのような文章を書いていること自体が生産性に明らかに反しているから、このサイトがなくならない限り私が世間の片隅に入れていただけるための道ははじまらない。

パンとサーカスなどと言うが、働きもせずサーカスを見せてやっても喜びもせず、パンばかり人一倍食っている私のようなのは奴隷としての価値がないばかりか損だからまもなく放り出されることだろうと思う。

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近所の子供は私を「うんこ仙人」と呼んでいるようだ。幼い兄弟のお兄さんが、そう言った弟さんをたしなめているのを見て、土下座して謝りたい気分であった。せめてお母さんなりが「あんなのに気を遣う必要はないんだよ」と言ってあげてくれていればと思う。

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たまたまほかのお客さんがいなければいいななどと考えてしまう場所が何となくあって、私の場合たとえばそれは個室ビデオ店のビデオを選ぶ場所であったり土曜の朝のコイン洗車場であったりするのだが、うまく説明する言葉を持たない。

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私が「思う」という言葉ばかり使っている時は、たいていひとりよがりでどうしようもなくなっている時だと思う。

 

押しつけ弁当論 (2015年9月26日)

たまには主張めいたことを書いてみる。

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中学校などでの「弁当持参」という制度、あれ一体なんだ。貧乏で育った者の僻みも当然あるが、それは置いておいても解せないことばかりである。即刻廃止すべきことを主張する。

感謝の言葉というものがある。「お父さんはどれだけ眠くても朝5時に起きて朝練に行く私のためにお弁当を作ってくれました。ありがとう。」

確かに「ありがたい」ことかもしれない。「難有」、そんなことする人なかなかいないぞ、希有なことだぞ、ということでそれはそれで分からなくはない。しかし「ありがた」くはあっても嬉しいかどうかは別の問題である。

果たして美談であろうか。美の基準には個人差もある。時代もあれば社会的なものもある。苦痛を伴う奉仕はそれだけで美談なのだろうか。電車に乗れば一時間で行けるところを、子供の手を引いて十二時間飲まず食わずで行軍することは良いことなのだろうか。どうにも分からない。

「友達のお弁当にはウインナーが入っていました。私はそれがうらやましくてたまらず、うちが貧乏でウインナーなど買えないことは分かっていましたが、つい母にねだってしまいました。翌朝、母は具合が悪そうで布団から出てきませんでしたが、私は置いてあったお弁当を持って学校へ行きました。お昼になって箱を開くと、何とウインナーが入っていたのです。かぶりついた瞬間、違和感を覚えました。骨があるのです。私はウインナーを食べたことがありませんでしたが、骨がないことは知っていました。塩味のついたそれを噛みしめながら、全てを知りました。涙が止まりませんでした。母は自分の指を二本切り落とし、料理したのです。」

美談だろうか。肉弾三勇士に通じる美談なのかもしれない。私には分からない。

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夏の暑い日に異臭を放つ弁当を飲み込みながら、冬の寒い日に冷え切った弁当を口の中で溶かしながら、子は果たして喜びを感じるのだろうか。喜びを感じなければいけないのかもしれない。イチゴなんてほとんど食べたことがなかったけれど、ぶよぶよのぬるくなったイチゴを食べていただろうお金持ちのあの子は、喜びを感じていたのだろうか。

アメリカの小学生が紙袋に入ったピーナツバターのサンドイッチを食べるのを批判する人もいるかもしれない。しかし私はそちらのほうがずっといいと思うのである。少なくとも握り飯をいくつかポンと渡して終わりにならないだろうか。

家族の作った弁当を通学路の川に捨てて乏しい財布のお金から三百円出してパンを買うような行為は果たして単なる反抗期ということで片づけられるのだろうか。級友とコミュニケーションをとりながら美味しいパンを食べるという魅力は否定されるべきなのだろうか。そのような勇気もなくお金もない者が人と話さず隠して弁当を飲み込むのは「いいこと」なのだろうか。

愛情という意見があるかもしれない。私は愛情という言葉を理解していないから何も言えないが、自分が苦しみ子が苦しむことが愛情なのだったらそんなもの不要である気がする。

家族の交流という意見があるかもしれない。血縁の者が親しくしなければいけないという考えには賛同しないが、仮にそうだとしても、一時間多く寝て仕事を効率よくこなし、一時間早く帰ってきたほうが交流できるのではないかと思うのである。私自身は親御さんも一時間早く仕事を終えて夜遊びをするのもいいと思うのだが。

私の弱い頭で考えると、どうみてもデメリットに比べてメリットが少なすぎるように思えてならないのだ。少なくとも毎日毎日各家庭でそのようなことを行う利点が思いつかない。伝統文化というのであればヒロポンも解禁すればいいし痰を吐くのも男女ともにそこらで立ち小便するのも子殺しも容認しなければならないだろう。何が悲しくて、あえて言おう、陋習に固執しなければならないのだろうか。多くの人が嫌うカルトの教えとどこが違うのか教えて欲しい。時代が進めば全てがよくなるとは決して思わないが、誰にとってもメリットがないものを守る意味はない。

ひどいことに多くが女性だが、キャラ弁の構成に悩み、自らの快楽を封殺し、睡眠時間を削って職場に向かい、帰ってきて弁当箱の残飯に落胆するような生活を送らなければならない人々がいると思うと、全員に土下座して回らなければいけないような気分になるのである。

奴隷の喜び、被虐の楽しみを旨とする人がいても決して否定しないが、子もまた同じ性癖をもっているとは限らない。

弁当制度の裏に何か大きな力が働いているのであれば、私はそのうち殺されるかもしれない、ですね。

 

狭い (2015年9月28日)

登戸(川崎市)にあるマクドナルドのドライブスルーが狭いので難儀したのは何週間か前のことだ。何となく思い出したので書いてみる。

いや、私の運転がうまくないというのはその通りなのだが(恥ずかしながら切り返した)、壁には無数のこすった跡があるから苦労した人は結構いらっしゃるのだろう。

何というか、こう、狭い上に曲がり角が曲線ではなく直角なのだ。画像では裏側がお分かりにならないと思うが。

登戸という土地柄、普段は電車通勤で休日だけ運転するお父さんがエスティマやエルグランドで進入して恐怖を味わう(そして子供にばかにされる)ことも十分考えられる。ペーパードライバーだった新人さんが疲れて営業車のライトエースで入ることだってあるだろう。

一日中観察していたい気もする。

ドライブスルーの狭さが私の心の狭さをあぶり出した形だ。

 

半襟とサンダル (2015年9月29日)

ファストフードやチェーン店が(作法を一度覚えれば)楽なのでつい入ってしまう。先日、調布のシュベールという喫茶店にふらっと入って(古めかしいな)などと思っていたら、そこも小規模なチェーン店であった。ホームページもある。

ベージュの低いソファで全部四人席。頭のところにタクシーや古い特急のような白いカバーがかかっている。このカバーが古めかしく感じるのは黒電話のレースカバーやドアノブカバーなどが廃れていったことと通じるのかもしれない。つい「西洋風」(「洋食」のような古めかしい言葉)という方向に考えがちだが、しかし昔の日本で過剰な気もして、そう思うとむしろ半襟や何かとつながっているのではとさえ感じる。もとは、全体を洗わなくてもそこだけ外して頻繁に洗えばいいという(水の豊富な土地ならではの)実用の知恵だったものが一種の様式となっているのかもしれないが、例によって根拠のないこじつけだ。

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こうして書いてきて思うのだが、私の文章はすぐに脇道に逸れる。「話が脱線する」という表現があるが、ずいぶんと大仰で縁起の悪い言葉だ。明治以降の言葉なのだろうが、昔の汽車はよく脱線したのだろうか。そして(またかよ、しょうがねえな)くらいの感覚だったのだろうか。(←これが「脱線」の実例。)

だから小説や戯曲(プロットの類)は書けないし、議論などまっとうにできた記憶がない。よく「何が言いたいのかわからない」と言われるが、とくべつ本題や意見があるわけでもなく思いつきで話したり書いたりするので、ごもっともとしか言いようがない。(←脱線した汽車が滑って横の田んぼに落ちた。)

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違う、すき家での話だ。「ファストフードやチェーン店が」で書き出したのはそのためなのだが、この書き出しがそもそもまずかった。「先日牛丼のすき家に行ったのだが」で書き出せばよかったのかもしれない。

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違う違う、だからすき家での話だ。豚汁たまごかけご飯朝食を食べに行ったら、中学生くらいのショートカットの少女とくたびれたた感じの髪の薄い中年男性が向かい合って楽しげに話しながらご飯を食べている。仲のいい父娘なのだろうと思った。

先に店を出て煙草を吸っているとその二人が出てきた。指を絡ませて手を繋いでいかにも幸福そうに歩いて行く。Tシャツにジャージの短パン、サンダル姿の二人が、朝の朝らしい空気の中で、そこだけ何だか独特の空間をつくっているような気がして、他人には立ち入れない何かがあるようにさえ感じられた。しかし勝手な想像である。「恋人つなぎ」という名称を思い出す私がいけないのだ。

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ほらみろ、二段落で終わった、余談のほうが多いじゃないか。しかし全部余談なのでいいのだ、と居直ってはいけない。

このときに林氏が書いておられるコメントは、だからプロの本当に気を遣ったご指摘なのだ。

とねさんは結論に向かって書くタイプではなくて、その場の文章を読ませたいタイプなんだと思いますが、〔後略〕

これはこのまま結論がないものなのでは…と思わせてしまうので〔後略〕

4年前に自分でこんなことを書いている。

そういえば、道(方向)に自信がないとき「えいやっ」と適当に判断して、その適当な判断を数回繰り返したあげく結局大きく迷ってしまう、という悪癖がある。途中で引き返すというのが正解なのだが、あせっている時に限って、挽回してやろうとめちゃくちゃになってしまうのだ。ごくごくたまに偶然道が合ってい ることもあるから、たちが悪い(しかし遠回りには変わりないことが多い)。

これは本当に歩いているときの話なのだが、どうもそういう性質なのかもしれない。

…まとまらない時に適当に取り繕ったようなことを書いてお茶を濁すのも、また悪癖である。

 

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作成:とね(info アットマーク yuzamashi.net)